どこにあるかは教えられない。というか、正確な場所を僕自身もよく覚えていない。カーナビが「目的地周辺です」と告げたとき、周囲には杉の木と霧しかなかった。でも湯気の匂いだけは確かにあった。ここから先は、ある冬の週末に僕が体験した(という体の)架空の温泉レポートである。
14時すぎ、宿に着く。「霧隠館」と書かれた木の看板は苔に半分覆われていて、読めるかどうかも怪しい。玄関を開けると、番頭さんがにこにこしながら「お待ちしておりました、Wi-Fiのパスワードは"yugakemuri"です」と言った。優先順位が独特である。
部屋に通されると、窓の向こうに渓谷が広がっていた。紅葉はとうに終わっていたが、枯れ木の隙間から湯気が立ち昇る景色はむしろ幻想的だった。仲居さんが持ってきた抹茶と温泉まんじゅうをいただきながら、しばし呆然とする。まんじゅうは3個あった。ひとりなのに。ありがたく全部食べた。
源泉その一
アルカリ性単純温泉、pH 9.2。入った瞬間「あ、溶ける」と思う。肌がつるつるになるとかそういうレベルではなく、自分の輪郭が曖昧になっていく感覚。湯船から上がったあと、鏡に映った自分が5歳くらい若返って見えた。たぶん気のせいだが、気のせいで十分うれしい。
源泉その二
含鉄-ナトリウム塩化物泉。少し赤みがかった湯で、舐めるとほのかに鉄の味がする(舐めてはいけない)。肩こり・腰痛に効くらしいが、入っている間は効能とか考える余裕がない。ただただ「ふぁ〜〜」と声が出る。これが効いている証拠だと思いたい。
源泉その三
硫黄泉。露天風呂の奥にひっそりとある。夜に入ると月が真上に見えるので「月見の湯」。硫黄の匂いが強めだが、星空と湯気が混ざる光景は完全にバグった美しさ。隣の岩に野生のサルが座っていた。目が合ったが、お互い何も言わなかった。
18時、部屋食。仲居さんが次から次へと料理を運んでくる。先付、八寸、お造り、焼き物、煮物、揚げ物、酢の物、蒸し物、ご飯、止め椀、水菓子。数えたら全12品あった。ひとりなのに。
特に印象的だったのは「霧隠名物・湯気蒸し」。せいろの蓋を開けると、もうもうと湯気が立ち昇り、その中から地元の野菜と川魚が現れる演出。まるでこのページの湯気エフェクトのリアル版である。味は言うまでもなく絶品。地酒「霧の雫」と合わせると、記憶が少し霞んでくる。これも温泉の効能かもしれない。
| 06:00 | 朝湯(絹の湯)。誰もいない。贅沢。 |
|---|---|
| 08:00 | 朝食。卵焼きが異常にうまい。 |
| 10:00 | 散策。吊り橋を渡る。少し怖い。 |
| 12:00 | 昼食。温泉街の蕎麦屋。天ぷら付き。 |
| 14:00 | 鉄輪の湯。おじさんと世間話。 |
| 16:00 | 部屋で昼寝。最高の罪悪感。 |
| 19:00 | 月見の湯。サルはいなかった。 |
チェックアウトの朝、番頭さんが「またお越しください。パスワードは変わりませんので」と言った。帰りの車の中でGoogleマップを確認したが、霧隠温泉郷はどこにも表示されなかった。あの場所は本当に存在したのだろうか。
——もちろん存在しない。これは架空の温泉レポートで、すべてダミーのテキストです。でも読み終わったあと、ちょっとだけ温泉に行きたくなったなら、このページの仕事は果たせたのかもしれません。画面の湯気、ちゃんと拭けましたか?