朝いちばんに退職届が出てくる。受け取ってから引き出しや共有フォルダを探しても、その人の仕事の手順を書いたものはどこにも見つからない。中小企業では、わりとよく起きることだと思います。

そこでまず思いつくのが「残りの期間でマニュアルを作ってもらおう」という案です。ただ、申し出の日から最終出社日までに何日あるかをカレンダーで実際に数えてみると、マニュアルを作る時間はたいてい残っていません。

先にやったほうがいいのは、引き継ぎに実際に使える日数を数えることだと思います。数字が出ると、その時間で何ができて何ができないかが見えるので、やることを絞る判断ができます。

私たち合同会社デジタル屋さんは、中小企業に外から入って業務の整理を手伝う仕事をしています。数え方と、絞ったあとに何が残るのかを順番に見ていきます。ただその前に、就業規則まわりで多くの会社が知らないまま運用している点が1つあります。

厚労省のモデル就業規則には、引き継ぎ義務の条項がない

就業規則を厚生労働省の「モデル就業規則」(国が公開している、就業規則のひな形)をもとに作った会社は多いと思います。そのモデル就業規則(令和7年12月版・全94ページ)を通して確認すると、「引継」「引き継」「承継」という語が1か所も出てきません

退職を扱う条文は第52条ですが、そこにも引き継ぎの記述はありません。しかも同条第1号は、こう書かれています。

退職を願い出て会社が承認したとき、又は退職願を提出して  日を経過したとき

日数の部分が空欄になっていて、そこは各社が自分で埋める前提のひな形です。埋めないまま使っている場合、退職を何日前までに申し出てもらうかという社内ルールは、実質的に存在しないことになります。

引き継ぎに関係しそうな条文として置かれているのは、個人情報保護の条項だけです。

第16条2 労働者は、職場又は職種を異動あるいは退職するに際して、自らが管理していた会社及び取引先等に関するデータ・情報書類等を速やかに返却しなければならない。

書かれているのは「返却」までで、「引き継ぐ」とはありません。つまり国のひな形をそのまま使っている会社は、引き継ぎを業務として求める根拠を就業規則の中に持っていないことになります。

とはいえ、これは「だから引き継がせられない」という話ではありませんし、今回の引き継ぎに間に合う話でもありません。ただ、次に同じことが起きる前に足しておける1行があるとは言えます。まずは自社の就業規則を開いて、予告期間の日数が埋まっているかどうかだけ確認してみてください。条文の追加や解釈が必要な場合は、社会保険労務士などの専門家にご確認ください。

出典:モデル就業規則|厚生労働省(令和7年12月版)

まず、引き継ぎに使える「実働日数」を数える

引き継ぎに使える実働日数の数え方。1.最終在籍日までの営業日を数える 2.残っている年次有給休暇を引く 3.通常業務の分を引く
在籍30日でも、実際に引き継ぎに使えるのは数時間ということが起こる

棚卸しや可視化から入りたくなるところですが、その前に日数を出しておくほうが動きやすいと思います。数えるものは3つあります。

① 最終在籍日までの営業日

民法では、期間の定めのない雇用契約について、解約の申入れの日から2週間で終了すると定められています(民法第627条)。就業規則に退職の規定がある場合は原則としてそちらが適用されますが、極端に長い申入れ期間を定めている場合は公序良俗の見地から無効とされることもある、とされています。

出典:よくあるご質問(退職・解雇・雇止め)|大阪労働局

そのため、こちらの都合で在籍期間を延ばすことは基本的にできないものと考えておくほうが安全だと思います。まず就業規則を開いて、自社の予告期間を確認してください。個別の解釈が必要な場合は、社会保険労務士などの専門家にご確認ください。

② 残っている年次有給休暇の日数を引く

見落とされやすいのがここだと思います。年次有給休暇は、原則として労働者が請求する時季に与えるものとされ、事業の正常な運営を妨げる場合には使用者が時季変更権を行使できます。ただ、退職の場面では事情が変わります。厚生労働省の解説は、次のように述べています。

退職間近に労働者が残存年休の全てを使い切って退職したいと申請する場合がありますが、退職をもって年休権が消滅することから、使用者は時季変更権を行使しえず、同年休取得を認めるほかありません。会社側が業務の引き継ぎなどが必要な場合、ときに退職日を遅らせるなどの打診がされることがありますが、これに応ずるか否かは労働者に委ねられています。

出典:年次有給休暇|確かめよう労働条件(厚生労働省)

勤続の長い人ほど、残っている有給は多くなります。在籍が30日残っていても、そのうち12日を有給消化に充てられれば、実際に会社に来るのは十数日です。ここは交渉で押し戻せる部分ではないので、最初から有給を引いた数字で計画を立てるほうが現実的だと思います。

③ 通常業務の分を引く

出社する日も、その人は普段の仕事を続けます。ですから引き継ぎに使えるのは1日あたり1時間程度と見ておくのが現実的で、出社が8日なら合計8時間、つまり丸1日ぶんということになります。

この数字を先に出しておくと、「全部を残してもらう」という計画を最初から立てずに済みます。8時間で移せる量は限られているので、何を諦めるかを考えるほうへ頭を切り替えられます。

今日、その人に聞く3つのこと

書いてもらうのは後回しでかまいません。今日のうちに口頭で聞いておきたいものが3つあります。いずれも、その人がいなくなった瞬間に会社が止まる種類の情報です。

  1. その人しか場所を知らないもの。各サービスのIDとパスワード、銀行のカードやトークンの保管場所、鍵、契約書の原本の置き場所。個人のパソコンや手帳にしかない情報がないかも聞いておきます
  2. いま動いている案件と、その期限。締切が最終出社日より後に来るものは、必ず洗い出しておきたいところです
  3. 例外があるもの。「この取引先だけは請求のタイミングが違う」「この作業は月末だけ手順が変わる」といった、標準から外れている部分です

3つ目がいちばん忘れられやすいと思います。通常の手順は誰かが見れば再現できますが、例外は存在自体を知らないと調べようがないからです。

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全部は引き継げない。3つに仕分ける

引き継ぎの3分類。①今すぐ聞く(止まると数日で損害が出るもの)②書き残してもらう(週〜月単位で回るもの)③今回は諦める(年1回の業務と判断の質)
③を先に決めておくと、①に使える時間が増える

使える時間が8時間だと分かった時点で、全業務を引き継ぐ計画は成立しなくなります。そこで仕分けることになるのですが、基準は「止まったとき、いつ困るか」に置くのがいいと思います。

今すぐ聞く(止まると数日で損害が出る)

支払い、入金確認、出荷、給与、期限のある届出。日付が決まっていて、遅れると相手や行政に影響が及ぶものです。ここは書面を待たずに、まず口頭で聞いて、その場でメモを取るほうが早いと思います。

書き残してもらう(週〜月単位で回る)

定例の集計、月次の処理、定期的な報告。次に発生するまで数週間の猶予があるので、そのあいだに残ったメモを見ながら進められます。

今回は諦める(年1回、または判断そのもの)

年に1度しか発生しない業務や、その人の経験に基づく判断の質そのものです。ここは8時間では移せないので、今回は諦める側に置くことになります。

ただし、諦めるというのは放置ではなく、「発生したときに調べ直す」と決めることだと考えています。そのために必要なのは業務の中身ではなく、「そういう業務が年1回ある」という事実と、そのとき参照する場所だけです。名前と置き場所さえ控えておけば、あとから追いつけます。

書き残してもらうのは、4項目でいい

引き継ぎ資料と言うと、手順を1から書き起こしたものを想像しがちですが、8時間しかない状況ではそれは成立しません。1業務あたり、次の4項目だけ埋めてもらうくらいがちょうどいいと思います。

  1. いつ発生するか(毎月◯日、依頼メールが来たとき、など)
  2. どこを開くか(システム名、フォルダの場所、棚の位置)
  3. 迷ったら誰に聞くか(社内の担当、取引先の窓口。氏名と連絡先まで)
  4. やってはいけないこと(過去に問題が起きた操作や判断)

手順そのものは入れていません。①〜③さえあれば、後任は自力でたどり着けるからです。そしていちばん価値があるのは④だと思っています。手順は調べれば分かりますが、「前にこれをやって失敗した」は本人しか知りません。

形式は問いません。箇条書きのメモで十分ですし、清書まで求めると、そこで残りの時間が尽きてしまいます。

相手のやる気が下がっているときの頼み方

頼み方の対比。動かない頼み方は「全部まとめておいてください」「時間があるときに」「なぜ今まで書いてこなかったのか」。動く頼み方は「この3つだけ」「◯日の午後に1時間ください」「箇条書きで結構です」
違いは範囲・時間・完成度の3点。感情に訴える要素は入っていない

辞めると決めた人は、多くの場合すでに気持ちが次に向いています。そこへ「全部まとめておいてください」と頼んでも、たいてい動きません。頼み方には3つの原則があります。

  • 範囲を狭くする。「全部」ではなく「この3つだけ」と言う
  • 時間を先に取る。「時間があるときに」では永久に来ないので、「◯日の午後に1時間ください」と枠で押さえます
  • 完成度の期待値を下げて伝える。「箇条書きで結構です」と最初に言っておくと、着手のハードルが下がります

逆に、やらないほうがいいこともあります。「なぜ今まで書いてこなかったのか」を問わないことです。その質問は状況を改善しませんし、残りの出社日の協力を失わせるだけになりかねません。書かれていなかったのは、その人が忙しかったからで、仕組みを用意しなかった側にも理由があります。

退職理由を問い詰めるのも同じだと思います。引き継ぎと退職理由の聞き取りは、混ぜないほうが両方うまくいきます。

お金も人も増やさずに、今週からできること

新しい道具も、追加の人手も要らないものだけを挙げます。

  • 聞き役を1人決めて、その人がメモを取る。本人に書かせるより速く、負担も本人側に寄りません。後任が決まっていなければ、いったん経営者自身でもかまいません
  • 口頭で聞いたことは、その場でチャットかメールに落とす。あとで清書しない前提にしておきます。検索できる場所にあることのほうが、体裁より重要だと思います
  • 画面を触る作業は、録画してもらう。スマートフォンで画面を撮るだけでも成立します。2〜3分の動画は、同じ内容を文章にするより短時間で作れます

いちばん事故るのは、鍵とアカウント

引き継ぎのテンプレートを見ると、ログイン情報の欄はたいてい「セキュリティのため別途提供」とだけ書かれています。ところが実務で事故るのはほぼここで、手順書は後からでも書けますが、入れないシステムには誰も入れません。

最終出社日までに、次の5つを名前ベースで洗い出しておくといいと思います。中身(パスワードそのもの)は最後でよく、まず「何があるか」と「誰が管理者か」を確定させます。

  1. 二要素認証がその人の携帯に入っているもの。この5つの中ではいちばん危険かもしれません。パスワードを知っていても、認証コードが本人の端末にしか届かないなら入れませんし、退職後に機種が手元を離れると復旧に時間がかかります
  2. その人の個人アカウントで契約しているサービス。本人がクレジットカードで契約し、経費精算していたものが典型です。退職と同時に請求も止まり、データも消えることがあります
  3. 権限の管理者が本人になっているもの。会計や販売管理は、管理者を本人にしたまま運用していると、退職後に権限を付け替えられません。使えるかどうかではなく、誰が権限を配れるかを確認します
  4. 個人のクラウドストレージや個人メールに入っている業務データ。悪意ではなく、その場で早いからそうなっていることがほとんどです。責める話にせず、場所だけ聞きます
  5. 物理的な鍵とトークン。金庫、倉庫、銀行のカードやワンタイムパスワード生成機、社用車。返却物リストがある会社は、そこに入っているか確認します

この5つは、聞くのに時間がかかりません。1と3だけでも先に潰しておくと、あとから発生する作業がかなり減ると思います。

後任がいないときは、引き継ぎではなく仕分けになる

中小企業でいちばん多いのは、後任が採用できていない状態です。引き継ぎの手順は後任がいる前提で組まれていることが多いので、そのままでは当てはまりません。

受け皿がないなら、業務ごとに行き先を4つのどれかに決めることになります。決めるのは経営者で、この判断は先送りできません。

  • 誰かが受ける。既にいる人に載せます。載せた分、その人の別の何かを降ろします。降ろすものを決めずに載せると、次に倒れるのはその人かもしれません
  • やめる。担当者が辞めるタイミングは、業務をやめる決定がいちばん通りやすい時期でもあります。「前からやっているから続いている」ものが必ず混ざっています
  • 外に出す。記帳、給与計算、定型の入力作業などは外部に切り出せます。判断が要らない作業から順に検討します
  • 止めて様子を見る。止めて誰からも何も言われない業務は、実際にあります。止める前に、止めたことを誰に伝えるかだけ決めておきます

4つのうち「誰かが受ける」だけが引き継ぎで、残り3つは引き継ぎではありません。使える時間が8時間しかないのであれば、引き継ぎに回すものを減らすほうが現実的だと思います。

これは、その会社だけで起きていることではない

属人化は、能力の高い人がいる会社ほど起きます。その人が回してくれているあいだ、問題は数字にも会議にも出てきません。表に出るのは、休職・退職・急病といったその人がいなくなった瞬間だけです。

つまり、発覚と同時に対処の時間が失われる構造になっているわけです。準備不足に見えるのは、経営者の怠慢というより、この構造の帰結かもしれません。ですから、いま日数を数えて優先順位をつけているなら、それは十分に妥当な動きだと思います。

そして次に同じことが起きる前に、どれを直してどれを置くかを決める話は属人化の直し方|全部やらず止まる順に2〜3個にまとめています。

今回を乗り切ったあと、同じことが次に起きる前に手を打つ話は別にあります。「マニュアル化できない」と言われる業務の扱い方は「マニュアル化できない仕事」の正体、平時の属人化の進め方は「あの人しか分からない型」の解説のほうです。

顧客リストのように、複数の人が同じファイルを触っている業務では、引き継ぐ前にどれが本物のファイルかを決める作業が先に要ります。その線の引き方は顧客管理のエクセル|作り方と5つの安全管理措置にあります。

どこから手をつけるか決めきれないとき

仕分けの3分類を自社に当てはめる段階で迷うことがあります。何が「止まると数日で困る」のかは、業種と社内の体制によって変わるためです。

自社の課題がどこにあるかを整理するところからであれば、会社の課題診断(無料・登録不要・約3分)で当たりをつけられます。私たち合同会社デジタル屋さんは、こうした引き継ぎの設計を、会社の中に入って一緒に決める仕事をしています。「うちの場合はどれを諦めるか」というところから相談していただいてかまいません。内容や規模によって進め方が変わるため、費用は要相談としています。まずはお問い合わせから状況をお知らせください。

出典

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